父とマシュマロ

「何かお菓子買うてかんでええか? 今やったらお母ちゃんに黙っといたるでェ」
 
今から20年ほど前の、GWが明けた、新緑の生える季節。ある土曜日の朝のことだ。
「パパ~まだやっきょくいけへんの?」
「お前が用意せんからや。早よトイレ行け」
4月の中旬から私はずっと父の職場に赴きたいと両親に訴えていた。父は遅くまで現場で仕事をしていて顔を見る機会があまりなかったので、どんな場所で何をしているのか気になっていた。ただ「やっきょく」と呼ばれるところへ、母がよく電話をかけており、父と母がよく「かんじゃさん」の症状や治療について話し合っていたことは鮮明に記憶している。それゆえ、行ったことのなかった「やっきょく」が何なのか殊更不思議で仕方なかった。
「やっきょくってなに? パパそこでなにしてんの?」
「可愛いおねーちゃんをはべらしてんやで」
「ほんまかいな」
「嘘教えんなや」
私の問いかけに母が冗談めかして答えたが、私が突っ込んだのを横で聞いていた父がそれを諫めていた。
「そんなに来たいんなら来るか? なんもおもろいのないで」
「行きたい! ええの?」
「局長に聞いてみるわな」
こうして、父からの提案で私の希望はあっさり叶ってしまったのである。
 
結局「やっきょく」が何なのか全く分からず、ただ「かんごふさん」と「ドクター」と「かんじゃさん」が多くいる病院のような場所ということだけ頭に入れたまま、車に乗り込んだ。
見慣れた景色を窓に流して車は南へ向かっていった。
途中、地域のスーパーに車を停めた父は、後部座席に乗っている私をバックミラー越しに覗きながら、職場はなんもないから何か買ってこかと私に声をかけた。
「なんでもええで。好きなん選んどいで。俺もはらペコやし、今日は黙っといたるでェ」
人間、いきなりなんでもいいと言われると突然それが枷となってしまうもので、スーパーに入るや否やお菓子コーナーへ向かうものの、何がほしいか全く分からなくなってしまう。4歳といえど、職場を汚しかねないお菓子を選んではいけないという気持ちは強くあったし、何より、なぜだか分からないがここで選ぶお菓子は特別なもののように感じていた。
私がお菓子コーナーにすっ飛んでいったのを予測できていたのであろう父は、お菓子を探すには十分な時間が経ってから、まだ決めかねている私の前に姿を現した。
バウムクーヘンとかいらんか?」
「そんなにおっきいのよう食べん」
ねるねるねるねは?」
「う~~~ん。なんかちゃう」
すったもんだの末、きれいなエメラルドグリーンの縁取りに幼い男女が描かれた包みのマシュマロを手にした。
「これがいい!」
「ほんまにそれでええねんな? もう買いに戻られへんで?」
「ええで」
会計を済ませた後、私は父の後を追って車に乗り込んだ。
 
「着いたで」
父の声が聞こえた。
はりきって職場までの景色や道のりを目に焼き付けようとしていたのに、いつの間にか居眠りをしていたらしい。まぁ帰りの道もあるしと思いながらドアを開けた。
「病院やんここ。やっきょくちゃうやん」
「せや。病院や。病院の中にあるんや」
父の職場は、私の家族が住む地域よりまだ南にある祖父宅のそばの道を抜けていき、そこからさらに田舎にある病院であった。
 片手にスーパーの袋を持った父は私の手を引いてずんずんと職員専用入り口へ向かう。予め持ってきていたミッフィーのぬいぐるみとどれみちゃんのコップを落とさないように、私は気を付けながら歩を進めた。
 
「おはようございます~」
「先生! まァ~差し入れ? ありがとうございます! 今日は遅番とちゃいますの?って、……あら?」
父が挨拶するや否や受付の人が、父の後ろで両手に物を溢れんばかりに持っている私を見つけて声を上げた。
「娘です。ほら、挨拶しなさい」
「こんにちは。パパの後をついてきました」
父に促されるまま、私はおずおずと受付の女性に挨拶をした。
「ま~かわいらしい看護婦さんですこと」
「うち来たい来たい言うて聞かんかったんですわ。今日だけですさかい、すんませんけど」
照れ隠しに頭をかきながら父は返事した。
 
病院特有の消毒された匂いが私を安心させる。入口の受付からまっすぐ進んで待合ホールに着くや否や、右手前のガラス越しに、やたらとテプラの貼られた数多の引き出しが見えた。他にも、梱包された粉や錠剤の入ったボトルと箱が陳列された棚がこちらに顔を向けていた。
「あれや。あそこが俺が働いてる場所や」
「箱ばっかりやん。真っ白や」
「そや。そんなんしかあれへん。せやけどあの中に入ってるもんで患者さんの手助けするんや」
父はその整然とした棚のある部屋へ私を連れていき、そこで待機するよう命じて大きな袋をひっさげたままどこかへ行ってしまった。
手持無沙汰になった私は、父が普段座っているらしい座席に腰を下ろし、机の上に乱雑に積まれた書類や人体図鑑を見つめていた。もともと家に人体関係の本がたくさんあったことが幸いして、人間の体内の絵を見ることには慣れていたが、生の写真を見ることはなかったため、解剖図鑑は特に食い入るように眺めていたことを記憶している。
ほどなくして父が数人の女性と男性を連れて部屋へ戻ってきた。
「あら~あの子が先生のお子さん?」
「かいらしいなあ」
「眼鏡までお父さんと一緒やねんなあ」
それまで静かだった棚の部屋は、見慣れない子供の姿で盛り上がる大人たちでてんやわんやしていた。私の「この人ら誰なんやろ……」という目線を察してか、父が私にこう告げた。
「ここが薬局や。薬を扱う場所やで。この人たちは俺がいつもお世話になってる先生と看護師さんや。……まぁ、お前には“注射打ってくれる人”とか“レンズ入れ替えてくれてる人”ていうたら通じるか」
「注射みんな打てんの? パパ打てへんのに? 眼鏡のレンズも入れ替えてくれるん? パパやらへんのに?」
 私の素朴な疑問に、部屋がわっと盛り上がった。私にはなんだかそれがとても面白く思えた。
「担当の科によって専属の人がおるんやで」
「か? せんぞく?」
「そや。お前、注射打ちに行く病院と、眼鏡を調節しに行く病院はおんなじ病院行ってるか?」
「注射はS町の病院いく! でもめがねはあそこの大きい病院!」
「せやせや。それとおんなじや。いろんな悪いところをなおすためにその担当の先生がいてはんねん。自分のクラスの担当の先生みたいなもんや。それがこの人たちなんや」
「へー」
 周りの温かい視線が私をくすぐらせた。家と幼稚園、行きつけの病院以外で大人と関わる機会を持たなかった私には、その視線が不思議と心地よかったのである。
「先生、めっちゃお父さんですね」
「自分の仕事くらい、自分で説明できませんと」
「今のは私たちの紹介でしたけどw」
「勘弁してくださいやw ほら、この棚見てみ、見慣れた色の粉末あるやろ」
 父は看護師さんの茶化しに苦笑しながら、私に棚の中段に目を向けるよう促した。そこにあったのは、風邪のときにいつも父が渡してくれていた薬である。薄い桃色の粉末が、生八ッ橋のように薬包紙で三角形に包まれていた。
「あっ! これ苺の味の粉薬や!」
「せや。ここにはこれ以外の風邪薬がようけある。せやけどどれが効くか効かへんか、個人差があるんや。効果だけやない。命にかかわることかてある。そういうの一個一個みていって、どれやったら患者さんに合うか、そういうのをここで考えるんや」
「なんかむずかしいことしてんねんな」
「アレルギーって聞いたことあるやろ」
「それアレ? このマシュマロのうらにもなんかかいてるやつ? あれるげんてある」
 父の説明を聞きながら、私はおもむろにさっき買ってもらったマシュマロを差し出した。
「そやそやこれ。よう気付いたな」
 ぺりぺりと袋を開けながら父がマシュマロを袋ごと渡してきた。
「ここに“以下のなんたらかんたら”ってある。このマシュマロにはこんだけのアレルゲンがありますよ~これに当てはまる人は気ィつけてや~ってやつや。中にはこれ一個食べて死んでしまう人もいてはる」
 袋の裏に表記されているアレルゲン含有の一覧表を指しながら父は続けた。
「死ぬんか」
 父の訥々とした語りの中に急に不穏な単語が出てきたので、私はつかんでいたマシュマロを口に入れることを一瞬ためらった。
「お前はその手のもんはなんもないからよかったけど」
「持ってる人は死ぬで。なんにでもそういうのはある。今のは例えやけどな。薬にもそういうの、あんねん。それがさっき言った“一人一人に合った薬を”って意味や」
 父は続けざまにそう言いながら、マシュマロを袋から取り出してぱくぱく食べ始めた。
「マシュマロうまいな」
 すでに日は昇っており、ブラインド越しとはいえ窓から入ってくる陽光は、思わずうたた寝しそうなほどあたたかかった。
「こんだけぬくかったらマシュマロ溶けてまうで」
 父の脅しを信じてしまった私は思わずマシュマロを二個つかみ、口にほおばった。口の中に淡く広がる優しい甘さが舌を溶かした。
「あんまり食べ過ぎんなよ。晩ご飯食べれんようになるからな……て、もう半分もあらへんやないか」
「おいしかったで」
「しゃーないな、俺が渡して目離してしもたってことにしといたるさかい。買うてもろたとか言うなよ。お前が叱られるからな」
 この日、父は見事に母に叱られていた。
 
陽光を背に、いつもと違う、もう二度と来ることはできないであろう場所で食べたマシュマロの味は、20年経った今でも容易に思い出すことができる。
父がそれまで何をしているのか全く分からなかったが、薬局でマシュマロを片手に滾々と語る父の姿からは、家では決して見ることのできなかった真摯さがありありと見て取れた。
それからというもの、お菓子を買うときには必ずこのマシュマロを思い出す。今でも変わらないパッケージがそこにある。そして、お菓子を食べすぎた日は決まってこの日のことを思い出す。
 
あのときの「特別なお菓子な気がする」という予感は見事に的中していた。