痔にはボラギノール

たかが痔、されど痔
 
 小学校生活もあと半年余という時分、痔を悪化させた男性が主人公のドラマが放送されていた。第一話のエンドシーンがかわいそうなほど強烈で、まだそういったお下劣なネタがツボだった私にはたまらなく可笑しかった。
 そのドラマが終わり、いくつか季節を経たある冬のことである。耐え難い腹痛に襲われた私は、コロコロコミックを手にお手洗いに駆け込んだ。もとから便秘がちだったこともあり、きっと今回もそれによるものだろうと考えていた。でんじゃらすじーさんを読みながらゲラゲラ笑っているうちにおなかがすっきりしたので出ようとしたところ、何やら赤いものが見えてしまったのである。
「ちょっと! どうしよう!! 私痔になってしもたわ!!」
焦りに焦って私は外で洗濯物を干している母に、お手洗いの中から叫び倒した。
「うるさい!! 大きい声でそんなん言わへんの!」
「ちゃうねん、どうしたらええか分からへんねん! でも痔っぽいねん!」
私は半泣きで猛抗議した。
「アッハッハッハ! あほ! それ痔ちゃうわ!」
「なんやて!?」
急いで勝手口から戻ってくる母の返事が聞こえたので、すかさず聞き返した。
「外に丸聞こえやでもー恥ずかしいわぁ」
母はケタケタ笑いながら、それが女性の階段の一段目であることを教えてくれた。
「赤飯炊いたろか」
冗談めかして提案する母に、私はそんな文化があるのかと驚きもしたが、どうやら昔に私が大変嫌うそぶりを見せていたらしく、かつ、作る側としてもめんどくさいとのことですぐにお流れになった。
「しかしいきなり痔が出てくるとはなあ」
阿部寛も痔やったからてっきり……」
「あれはそういう役や」
「第一まだ若いしそんな痔になるようなことしてへんやろ。便秘で切れたと思ったんか?」
「せや」
「あほちゃうか」
晴れて2回目のあほをいただいてしまったのである。
 
 この次の春に、神戸へ出かけた。メリケンパークへ通じる大通り沿いを、エビ団子を食べながら歩いているときだった。
「あ! 阿部寛や!!」
「!? どこ!? どこどこ!?」
弟の唐突な叫びに、私は思わず辺りを見回した。しかし、阿部寛の姿は見当たらない。
「ほらここ!」
弟が指差した先にあったのは看板であった。
 
「たかが痔
 されど痔」
 
おどろおどろしいフォントで縦書きでそう書かれてあった。おそらく泌尿器科のクリニックであろう。我が家では、「痔」といえば「阿部寛」という等式が成立してしまっていた。
「だからあれはそういう役や。あんたもこんなところに本人がおるわけないやろ」
母は弟に突っ込みながら、私を諫めた。
 この弟の姉は数年後、母に同じことをしでかすのだがそんなことはまだ思いもしていない。それどころかもうこんなネタ、忘れているだろうとさえ思っていた。
 
 それから何年か経ったある夏の日。天王寺駅の地下通路、通称「あべちか」を歩いているときに、とんでもない看板を見つけてしまい、一緒に歩いていた母に声をかけたのである。
「見てこれ!」
「あんたやん」
「やかましいわ」
大きな赤い字で「ぢ」と書かれた肛門科のクリニックの看板であった。あの弟にしてこの姉である。奇しくもこの日も神戸に向かう途中であった。
「あんたら二人とも痔好きやなあ。あんたは痔やしな」
JR神戸線に乗り換えたあと、新快速の車内で淀川を横目にしながら母が言った。
「大体阿部寛せいやし痔ちゃうし!」
「あのときはほとほと参ったわ」
「だってそらびっくりするやん」
「せやかてあんな大きい声で痔になったって言われたら笑うしかないやろ」
「も~勘弁」
「こっちのセリフやて。あんたのLINE、痔にしといたったで」
母がLINEの私のプロフィールを見せてきた。名前には「痔」と書かれており、アイコンの画像はあべちかで見かけた赤い字の「ぢ」の看板の写真が設定されていた。
「いらんて、何してんねんwww」
「おんなじ “ち” に点々やで。痔は “ち” に点々やし生理の血も赤いし痔の血も赤いからな」
「意味わからんし悪意しかあらへんがな」
 そうこうしているうちに三ノ宮駅到着のアナウンスが流れた。
「三ノ宮着いたで、もう一駅乗ってこか。痔には大変やろ、あの距離歩くの」
「当たり前やん。痔やからな」
「やっぱり痔やん。先に南京町行くか?」
「いや、メリケンパークがいい」

元町駅で降りたあと、東へ向かい、大通りを歩くとやはり看板は健在であった。
 
「たかが痔
 されど痔」
 
「それなら痔に効くもんていうたらやっぱりこれしかないでな」
「痔にはボラギノールやろ」
 
こうして母のLINEでは私は「痔」に、私のLINEでは母が「ボラギノール」になったのである。