祖父と候文

「きみの音がするよ」

「あなたの音がします」

祖父は微笑みながら私に卵を手渡した。

 

祖父はいつでも詩的であり深い教養を持った人だった。彼との思い出は数えるほどしかなく、私の歳が重なるにつれ、いつのまにか「おじいちゃん」と呼ぶことは許されず、「お祖父様」と呼ぶほどまで距離が遠くなっていた。

祖父が亡くなる晩年に大学に合格した。不孝者なため、文転して2年も浪人した挙句さほど高いレベルでもない私立大学に行くことになってしまった。学生寮に入る直前のことである。

「ここに一年分の切手を入れてあります。私の命が消炭になるまでの一年、手紙を遣しなさい」

祖父が訪れてそう言った。今更なんですかこれと訊くわけにもいかず、「承りました」と渡された12枚の切手と分厚い封書を手にして京都へ私は発った。


北へまっすぐ伸びる道中の特急の中で、私はため息をつく。封書から出てきたのは、ご丁寧に祝儀式に三つ折りにした真っ白な3枚の便箋。馬鹿にされているなと心底諦めながらぱらとめくる。便箋に走らされた達筆な字。出だしは親の顔より見た候文。かつてこれほどまでボールペンで書かれた字を美しいと思ったことがあっただろうか。祖父は教師であった。彼の記す字と彼の背筋は家系の中で最も綺麗であった。まっすぐな骨があり、大胆に流麗に踊る字。それはまさに病に伏していた彼が最後にできることだったのだろうと今なら分かる。

 

封書を鞄にしまい、何を返せばいいのやらと頭を抱えながら、さほど楽しみでもない大学生活が始まった。

入学式を終えた桜の散る頃、一通目の書簡が届いた。

拝啓からでいいんだっけ何を書けば機嫌を損ねずに済む?などとうんうん唸りながらSARASAのネイビーを手に取る。


「世の中の 絶えて桜の無かりせば 春の心はのどけからまし」


かように穏やかに散る桜を見てなぜこうも焦っているのか。やはり桜などなければ手紙に記さずにも済んだものを。

一週間かけてやっと捻り出した文章を送ろうと切手を貼り、そうこうしているうちに新緑の季節になった。


「ちりまがふ 花は木の葉にかくされて まれににほへる色ぞともしき」


二通目の書簡が届いたのである。

親の顔より見た候文。便箋は木漏れ日に照らされて白く輝き、走らされた字は合間の陰りによっていよいよ深い紺色にも見えた。いよいよ私はその達筆な字に心惹かれ、また、気圧されてボールペンで字を書くのをやめ、万年筆を手に取った。紫陽花が軒先を飾る時節のことである。

すでに二月三月が過ぎていた。送り損なった手紙がさざなみのように重なっていく。

和紙にペン先が引っかかる。インクが血溜まりのように滴り、白い和紙を染めてゆく。淡々と過ぎゆく日々を綴るには、道具があまりにも立派すぎたのである。やはり早かったかと後悔もした。書き損じはどんどん増えた。そうこうしているうちに入道雲が晴れてしまい、蒼天は突き抜けるほど高くなっていた。

その間も書簡は絶え間なく届いた。

私はもはやしたためられるだけの日を過ごせていないことに目を瞑り始めていた。書簡は開けるだけ開けて、「字のないはがき」さながら、祖父の字面から体調を伺うだけになってしまった。

 

年が明け、後期の講義のため京都へ戻った際に、祖父の余命を知ることとなった。覚悟はしていたので、驚きもしなかったが、祖父からの書簡がここで途絶えたことで、次の桜のことを書けないことを実感した。

帰省と称した春休み。蕗の薹が顔を出し始めた、暖かくもまだ肌寒さが残る春分の日。早朝に一本の電話が入る。

祖父が鬼籍に入ったのである。

候文の文法を調べてやっと書き慣れた頃であった。

 

結局一通も出せずに祖父とのやり取りは終わった。学生寮の古い引き出しには、祖父からの手紙と私の送り損なった何通もの手紙だけが重なっていった。一体何通になっただろうか。およそ道端に散る紅葉の数に負けず劣らずの数であった。もう何をしたためたのかも憶えていない。されど祖父はおそらく私の手紙を待っていた。取り返しのつかないことをしたのではと時々思う。

 

それから候文で手紙を書く機会など得られないまま四回生の夏を迎えた。受けた講義の課題が「候文で手紙を書け」というものだった。

3年眠らせていた特技がこんなところで役に立つだなんて誰が想像できようか。

かなりブランクがあったが、驚くほど筆が進むもので、少し笑みが溢れてしまう。ほんとうならこれを祖父に渡すべきであったのだ。


もう二度と生身の人間に候文で手紙を書くことなんてないだろう。祖父が亡くなったときは特に涙が出ることはなかった。書き忘れたことも言い忘れたこともないように思えたからだ。

しかし葬儀の場では、どこか忘れ物をしたような気分が続いていた。

おそらくそれは心残りであろう。

私は最後まで祖父に自分の字を見てもらいたかったのに、書いた手紙は一通も送らなかったのだから。

 

私の字を美しいと称えてくれたのは祖父ただ一人であった。


私が書いた最初で最後の候文の宛先が、祖父ではなく大学の教授になってしまったことは、後悔しても遅いことは分かっている。

ただ少しでも許されるなら、今から貯めた手紙を送っても良いだろうかとたまに期待を寄せてしまうのである。