貴女があんまりにも優しく笑うから

学生の頃の話である。

その日は午前だけの講義がある日だった。14時頃に最寄りに到着したが酷く暑かったので、すぐには帰らず待合室で30分ほど涼んでいた。

対向路線に電車が来たのを機に重い腰を上げて待合室を出ると、対岸のホームから部活帰りの女子中学生たちの甲高い笑い声と悲鳴が聞こえてきた。さっき来たばかりだった電車はすでに出発したあとで、おそらく彼女たちはそれに乗りたかったのだろう。それを横目に改札へ続く階段を降りていると、階段下から「もう吉野線は行ってしまいましたか」と声が聞こえてきた。さっきの彼女たちの悲鳴を聞いていたのだろう。声の主は汗を拭いながら階段を昇る小洒落た格好をしたおばあさんだった。彼女は片手に鷺草の小さな花束を抱えていた。

一陣の風が吹く最中、吉野線ならまだ間に合いますよと返事をした。「ああよかった」と安堵しながら階段を登る彼女を見守っていた。

「貴女、こんな時間にここにいるということは、学生さん?」

「ええ、そうです」

「あらいいわね。私も学生、体験してみたかったわ」

「今からでも、遅くないと思いますけど」

「私ね、ここから通っていた学生さんを見るのが好きだったの。お友達があそこの学生服に身を包んでいたの、素敵だったわ。今日はね、彼女に会いに行くのよ。これは、学のなかった私に、あの子が好きだと教えてくれたお花」

そう言いながら彼女は抱えた花束に微笑みかけた。

「……何年前ですか」

声を掻き消すように電車が到着するアナウンスが流れた。

「もうずっと昔のことよ。学生さんに会えたのは久々だったわ。残りの学生生活、素敵な時間を過ごしてね」

滑り込んできた電車に吸われるように乗り込んだ彼女を見送りながら、改札を出た。

ここは30分に1本の頻度でしか電車が来ない片田舎。突き抜けるような青空とつんざくほどのセミの声が少し愛おしいと思った文月の晦日

太陽かおばあさんか、どちらが眩しかったのかは、言うまでもない。

父とマシュマロ

「何かお菓子買うてかんでええか? 今やったらお母ちゃんに黙っといたるでェ」
 
今から20年ほど前の、GWが明けた、新緑の生える季節。ある土曜日の朝のことだ。
「パパ~まだやっきょくいけへんの?」
「お前が用意せんからや。早よトイレ行け」
4月の中旬から私はずっと父の職場に赴きたいと両親に訴えていた。父は遅くまで現場で仕事をしていて顔を見る機会があまりなかったので、どんな場所で何をしているのか気になっていた。ただ「やっきょく」と呼ばれるところへ、母がよく電話をかけており、父と母がよく「かんじゃさん」の症状や治療について話し合っていたことは鮮明に記憶している。それゆえ、行ったことのなかった「やっきょく」が何なのか殊更不思議で仕方なかった。
「やっきょくってなに? パパそこでなにしてんの?」
「可愛いおねーちゃんをはべらしてんやで」
「ほんまかいな」
「嘘教えんなや」
私の問いかけに母が冗談めかして答えたが、私が突っ込んだのを横で聞いていた父がそれを諫めていた。
「そんなに来たいんなら来るか? なんもおもろいのないで」
「行きたい! ええの?」
「局長に聞いてみるわな」
こうして、父からの提案で私の希望はあっさり叶ってしまったのである。
 
結局「やっきょく」が何なのか全く分からず、ただ「かんごふさん」と「ドクター」と「かんじゃさん」が多くいる病院のような場所ということだけ頭に入れたまま、車に乗り込んだ。
見慣れた景色を窓に流して車は南へ向かっていった。
途中、地域のスーパーに車を停めた父は、後部座席に乗っている私をバックミラー越しに覗きながら、職場はなんもないから何か買ってこかと私に声をかけた。
「なんでもええで。好きなん選んどいで。俺もはらペコやし、今日は黙っといたるでェ」
人間、いきなりなんでもいいと言われると突然それが枷となってしまうもので、スーパーに入るや否やお菓子コーナーへ向かうものの、何がほしいか全く分からなくなってしまう。4歳といえど、職場を汚しかねないお菓子を選んではいけないという気持ちは強くあったし、何より、なぜだか分からないがここで選ぶお菓子は特別なもののように感じていた。
私がお菓子コーナーにすっ飛んでいったのを予測できていたのであろう父は、お菓子を探すには十分な時間が経ってから、まだ決めかねている私の前に姿を現した。
バウムクーヘンとかいらんか?」
「そんなにおっきいのよう食べん」
ねるねるねるねは?」
「う~~~ん。なんかちゃう」
すったもんだの末、きれいなエメラルドグリーンの縁取りに幼い男女が描かれた包みのマシュマロを手にした。
「これがいい!」
「ほんまにそれでええねんな? もう買いに戻られへんで?」
「ええで」
会計を済ませた後、私は父の後を追って車に乗り込んだ。
 
「着いたで」
父の声が聞こえた。
はりきって職場までの景色や道のりを目に焼き付けようとしていたのに、いつの間にか居眠りをしていたらしい。まぁ帰りの道もあるしと思いながらドアを開けた。
「病院やんここ。やっきょくちゃうやん」
「せや。病院や。病院の中にあるんや」
父の職場は、私の家族が住む地域よりまだ南にある祖父宅のそばの道を抜けていき、そこからさらに田舎にある病院であった。
 片手にスーパーの袋を持った父は私の手を引いてずんずんと職員専用入り口へ向かう。予め持ってきていたミッフィーのぬいぐるみとどれみちゃんのコップを落とさないように、私は気を付けながら歩を進めた。
 
「おはようございます~」
「先生! まァ~差し入れ? ありがとうございます! 今日は遅番とちゃいますの?って、……あら?」
父が挨拶するや否や受付の人が、父の後ろで両手に物を溢れんばかりに持っている私を見つけて声を上げた。
「娘です。ほら、挨拶しなさい」
「こんにちは。パパの後をついてきました」
父に促されるまま、私はおずおずと受付の女性に挨拶をした。
「ま~かわいらしい看護婦さんですこと」
「うち来たい来たい言うて聞かんかったんですわ。今日だけですさかい、すんませんけど」
照れ隠しに頭をかきながら父は返事した。
 
病院特有の消毒された匂いが私を安心させる。入口の受付からまっすぐ進んで待合ホールに着くや否や、右手前のガラス越しに、やたらとテプラの貼られた数多の引き出しが見えた。他にも、梱包された粉や錠剤の入ったボトルと箱が陳列された棚がこちらに顔を向けていた。
「あれや。あそこが俺が働いてる場所や」
「箱ばっかりやん。真っ白や」
「そや。そんなんしかあれへん。せやけどあの中に入ってるもんで患者さんの手助けするんや」
父はその整然とした棚のある部屋へ私を連れていき、そこで待機するよう命じて大きな袋をひっさげたままどこかへ行ってしまった。
手持無沙汰になった私は、父が普段座っているらしい座席に腰を下ろし、机の上に乱雑に積まれた書類や人体図鑑を見つめていた。もともと家に人体関係の本がたくさんあったことが幸いして、人間の体内の絵を見ることには慣れていたが、生の写真を見ることはなかったため、解剖図鑑は特に食い入るように眺めていたことを記憶している。
ほどなくして父が数人の女性と男性を連れて部屋へ戻ってきた。
「あら~あの子が先生のお子さん?」
「かいらしいなあ」
「眼鏡までお父さんと一緒やねんなあ」
それまで静かだった棚の部屋は、見慣れない子供の姿で盛り上がる大人たちでてんやわんやしていた。私の「この人ら誰なんやろ……」という目線を察してか、父が私にこう告げた。
「ここが薬局や。薬を扱う場所やで。この人たちは俺がいつもお世話になってる先生と看護師さんや。……まぁ、お前には“注射打ってくれる人”とか“レンズ入れ替えてくれてる人”ていうたら通じるか」
「注射みんな打てんの? パパ打てへんのに? 眼鏡のレンズも入れ替えてくれるん? パパやらへんのに?」
 私の素朴な疑問に、部屋がわっと盛り上がった。私にはなんだかそれがとても面白く思えた。
「担当の科によって専属の人がおるんやで」
「か? せんぞく?」
「そや。お前、注射打ちに行く病院と、眼鏡を調節しに行く病院はおんなじ病院行ってるか?」
「注射はS町の病院いく! でもめがねはあそこの大きい病院!」
「せやせや。それとおんなじや。いろんな悪いところをなおすためにその担当の先生がいてはんねん。自分のクラスの担当の先生みたいなもんや。それがこの人たちなんや」
「へー」
 周りの温かい視線が私をくすぐらせた。家と幼稚園、行きつけの病院以外で大人と関わる機会を持たなかった私には、その視線が不思議と心地よかったのである。
「先生、めっちゃお父さんですね」
「自分の仕事くらい、自分で説明できませんと」
「今のは私たちの紹介でしたけどw」
「勘弁してくださいやw ほら、この棚見てみ、見慣れた色の粉末あるやろ」
 父は看護師さんの茶化しに苦笑しながら、私に棚の中段に目を向けるよう促した。そこにあったのは、風邪のときにいつも父が渡してくれていた薬である。薄い桃色の粉末が、生八ッ橋のように薬包紙で三角形に包まれていた。
「あっ! これ苺の味の粉薬や!」
「せや。ここにはこれ以外の風邪薬がようけある。せやけどどれが効くか効かへんか、個人差があるんや。効果だけやない。命にかかわることかてある。そういうの一個一個みていって、どれやったら患者さんに合うか、そういうのをここで考えるんや」
「なんかむずかしいことしてんねんな」
「アレルギーって聞いたことあるやろ」
「それアレ? このマシュマロのうらにもなんかかいてるやつ? あれるげんてある」
 父の説明を聞きながら、私はおもむろにさっき買ってもらったマシュマロを差し出した。
「そやそやこれ。よう気付いたな」
 ぺりぺりと袋を開けながら父がマシュマロを袋ごと渡してきた。
「ここに“以下のなんたらかんたら”ってある。このマシュマロにはこんだけのアレルゲンがありますよ~これに当てはまる人は気ィつけてや~ってやつや。中にはこれ一個食べて死んでしまう人もいてはる」
 袋の裏に表記されているアレルゲン含有の一覧表を指しながら父は続けた。
「死ぬんか」
 父の訥々とした語りの中に急に不穏な単語が出てきたので、私はつかんでいたマシュマロを口に入れることを一瞬ためらった。
「お前はその手のもんはなんもないからよかったけど」
「持ってる人は死ぬで。なんにでもそういうのはある。今のは例えやけどな。薬にもそういうの、あんねん。それがさっき言った“一人一人に合った薬を”って意味や」
 父は続けざまにそう言いながら、マシュマロを袋から取り出してぱくぱく食べ始めた。
「マシュマロうまいな」
 すでに日は昇っており、ブラインド越しとはいえ窓から入ってくる陽光は、思わずうたた寝しそうなほどあたたかかった。
「こんだけぬくかったらマシュマロ溶けてまうで」
 父の脅しを信じてしまった私は思わずマシュマロを二個つかみ、口にほおばった。口の中に淡く広がる優しい甘さが舌を溶かした。
「あんまり食べ過ぎんなよ。晩ご飯食べれんようになるからな……て、もう半分もあらへんやないか」
「おいしかったで」
「しゃーないな、俺が渡して目離してしもたってことにしといたるさかい。買うてもろたとか言うなよ。お前が叱られるからな」
 この日、父は見事に母に叱られていた。
 
陽光を背に、いつもと違う、もう二度と来ることはできないであろう場所で食べたマシュマロの味は、20年経った今でも容易に思い出すことができる。
父がそれまで何をしているのか全く分からなかったが、薬局でマシュマロを片手に滾々と語る父の姿からは、家では決して見ることのできなかった真摯さがありありと見て取れた。
それからというもの、お菓子を買うときには必ずこのマシュマロを思い出す。今でも変わらないパッケージがそこにある。そして、お菓子を食べすぎた日は決まってこの日のことを思い出す。
 
あのときの「特別なお菓子な気がする」という予感は見事に的中していた。

痔にはボラギノール

たかが痔、されど痔
 
 小学校生活もあと半年余という時分、痔を悪化させた男性が主人公のドラマが放送されていた。第一話のエンドシーンがかわいそうなほど強烈で、まだそういったお下劣なネタがツボだった私にはたまらなく可笑しかった。
 そのドラマが終わり、いくつか季節を経たある冬のことである。耐え難い腹痛に襲われた私は、コロコロコミックを手にお手洗いに駆け込んだ。もとから便秘がちだったこともあり、きっと今回もそれによるものだろうと考えていた。でんじゃらすじーさんを読みながらゲラゲラ笑っているうちにおなかがすっきりしたので出ようとしたところ、何やら赤いものが見えてしまったのである。
「ちょっと! どうしよう!! 私痔になってしもたわ!!」
焦りに焦って私は外で洗濯物を干している母に、お手洗いの中から叫び倒した。
「うるさい!! 大きい声でそんなん言わへんの!」
「ちゃうねん、どうしたらええか分からへんねん! でも痔っぽいねん!」
私は半泣きで猛抗議した。
「アッハッハッハ! あほ! それ痔ちゃうわ!」
「なんやて!?」
急いで勝手口から戻ってくる母の返事が聞こえたので、すかさず聞き返した。
「外に丸聞こえやでもー恥ずかしいわぁ」
母はケタケタ笑いながら、それが女性の階段の一段目であることを教えてくれた。
「赤飯炊いたろか」
冗談めかして提案する母に、私はそんな文化があるのかと驚きもしたが、どうやら昔に私が大変嫌うそぶりを見せていたらしく、かつ、作る側としてもめんどくさいとのことですぐにお流れになった。
「しかしいきなり痔が出てくるとはなあ」
阿部寛も痔やったからてっきり……」
「あれはそういう役や」
「第一まだ若いしそんな痔になるようなことしてへんやろ。便秘で切れたと思ったんか?」
「せや」
「あほちゃうか」
晴れて2回目のあほをいただいてしまったのである。
 
 この次の春に、神戸へ出かけた。メリケンパークへ通じる大通り沿いを、エビ団子を食べながら歩いているときだった。
「あ! 阿部寛や!!」
「!? どこ!? どこどこ!?」
弟の唐突な叫びに、私は思わず辺りを見回した。しかし、阿部寛の姿は見当たらない。
「ほらここ!」
弟が指差した先にあったのは看板であった。
 
「たかが痔
 されど痔」
 
おどろおどろしいフォントで縦書きでそう書かれてあった。おそらく泌尿器科のクリニックであろう。我が家では、「痔」といえば「阿部寛」という等式が成立してしまっていた。
「だからあれはそういう役や。あんたもこんなところに本人がおるわけないやろ」
母は弟に突っ込みながら、私を諫めた。
 この弟の姉は数年後、母に同じことをしでかすのだがそんなことはまだ思いもしていない。それどころかもうこんなネタ、忘れているだろうとさえ思っていた。
 
 それから何年か経ったある夏の日。天王寺駅の地下通路、通称「あべちか」を歩いているときに、とんでもない看板を見つけてしまい、一緒に歩いていた母に声をかけたのである。
「見てこれ!」
「あんたやん」
「やかましいわ」
大きな赤い字で「ぢ」と書かれた肛門科のクリニックの看板であった。あの弟にしてこの姉である。奇しくもこの日も神戸に向かう途中であった。
「あんたら二人とも痔好きやなあ。あんたは痔やしな」
JR神戸線に乗り換えたあと、新快速の車内で淀川を横目にしながら母が言った。
「大体阿部寛せいやし痔ちゃうし!」
「あのときはほとほと参ったわ」
「だってそらびっくりするやん」
「せやかてあんな大きい声で痔になったって言われたら笑うしかないやろ」
「も~勘弁」
「こっちのセリフやて。あんたのLINE、痔にしといたったで」
母がLINEの私のプロフィールを見せてきた。名前には「痔」と書かれており、アイコンの画像はあべちかで見かけた赤い字の「ぢ」の看板の写真が設定されていた。
「いらんて、何してんねんwww」
「おんなじ “ち” に点々やで。痔は “ち” に点々やし生理の血も赤いし痔の血も赤いからな」
「意味わからんし悪意しかあらへんがな」
 そうこうしているうちに三ノ宮駅到着のアナウンスが流れた。
「三ノ宮着いたで、もう一駅乗ってこか。痔には大変やろ、あの距離歩くの」
「当たり前やん。痔やからな」
「やっぱり痔やん。先に南京町行くか?」
「いや、メリケンパークがいい」

元町駅で降りたあと、東へ向かい、大通りを歩くとやはり看板は健在であった。
 
「たかが痔
 されど痔」
 
「それなら痔に効くもんていうたらやっぱりこれしかないでな」
「痔にはボラギノールやろ」
 
こうして母のLINEでは私は「痔」に、私のLINEでは母が「ボラギノール」になったのである。

 

祖父と候文

「きみの音がするよ」

「あなたの音がします」

祖父は微笑みながら私に卵を手渡した。

 

祖父はいつでも詩的であり深い教養を持った人だった。彼との思い出は数えるほどしかなく、私の歳が重なるにつれ、いつのまにか「おじいちゃん」と呼ぶことは許されず、「お祖父様」と呼ぶほどまで距離が遠くなっていた。

祖父が亡くなる晩年に大学に合格した。不孝者なため、文転して2年も浪人した挙句さほど高いレベルでもない私立大学に行くことになってしまった。学生寮に入る直前のことである。

「ここに一年分の切手を入れてあります。私の命が消炭になるまでの一年、手紙を遣しなさい」

祖父が訪れてそう言った。今更なんですかこれと訊くわけにもいかず、「承りました」と渡された12枚の切手と分厚い封書を手にして京都へ私は発った。


北へまっすぐ伸びる道中の特急の中で、私はため息をつく。封書から出てきたのは、ご丁寧に祝儀式に三つ折りにした真っ白な3枚の便箋。馬鹿にされているなと心底諦めながらぱらとめくる。便箋に走らされた達筆な字。出だしは親の顔より見た候文。かつてこれほどまでボールペンで書かれた字を美しいと思ったことがあっただろうか。祖父は教師であった。彼の記す字と彼の背筋は家系の中で最も綺麗であった。まっすぐな骨があり、大胆に流麗に踊る字。それはまさに病に伏していた彼が最後にできることだったのだろうと今なら分かる。

 

封書を鞄にしまい、何を返せばいいのやらと頭を抱えながら、さほど楽しみでもない大学生活が始まった。

入学式を終えた桜の散る頃、一通目の書簡が届いた。

拝啓からでいいんだっけ何を書けば機嫌を損ねずに済む?などとうんうん唸りながらSARASAのネイビーを手に取る。


「世の中の 絶えて桜の無かりせば 春の心はのどけからまし」


かように穏やかに散る桜を見てなぜこうも焦っているのか。やはり桜などなければ手紙に記さずにも済んだものを。

一週間かけてやっと捻り出した文章を送ろうと切手を貼り、そうこうしているうちに新緑の季節になった。


「ちりまがふ 花は木の葉にかくされて まれににほへる色ぞともしき」


二通目の書簡が届いたのである。

親の顔より見た候文。便箋は木漏れ日に照らされて白く輝き、走らされた字は合間の陰りによっていよいよ深い紺色にも見えた。いよいよ私はその達筆な字に心惹かれ、また、気圧されてボールペンで字を書くのをやめ、万年筆を手に取った。紫陽花が軒先を飾る時節のことである。

すでに二月三月が過ぎていた。送り損なった手紙がさざなみのように重なっていく。

和紙にペン先が引っかかる。インクが血溜まりのように滴り、白い和紙を染めてゆく。淡々と過ぎゆく日々を綴るには、道具があまりにも立派すぎたのである。やはり早かったかと後悔もした。書き損じはどんどん増えた。そうこうしているうちに入道雲が晴れてしまい、蒼天は突き抜けるほど高くなっていた。

その間も書簡は絶え間なく届いた。

私はもはやしたためられるだけの日を過ごせていないことに目を瞑り始めていた。書簡は開けるだけ開けて、「字のないはがき」さながら、祖父の字面から体調を伺うだけになってしまった。

 

年が明け、後期の講義のため京都へ戻った際に、祖父の余命を知ることとなった。覚悟はしていたので、驚きもしなかったが、祖父からの書簡がここで途絶えたことで、次の桜のことを書けないことを実感した。

帰省と称した春休み。蕗の薹が顔を出し始めた、暖かくもまだ肌寒さが残る春分の日。早朝に一本の電話が入る。

祖父が鬼籍に入ったのである。

候文の文法を調べてやっと書き慣れた頃であった。

 

結局一通も出せずに祖父とのやり取りは終わった。学生寮の古い引き出しには、祖父からの手紙と私の送り損なった何通もの手紙だけが重なっていった。一体何通になっただろうか。およそ道端に散る紅葉の数に負けず劣らずの数であった。もう何をしたためたのかも憶えていない。されど祖父はおそらく私の手紙を待っていた。取り返しのつかないことをしたのではと時々思う。

 

それから候文で手紙を書く機会など得られないまま四回生の夏を迎えた。受けた講義の課題が「候文で手紙を書け」というものだった。

3年眠らせていた特技がこんなところで役に立つだなんて誰が想像できようか。

かなりブランクがあったが、驚くほど筆が進むもので、少し笑みが溢れてしまう。ほんとうならこれを祖父に渡すべきであったのだ。


もう二度と生身の人間に候文で手紙を書くことなんてないだろう。祖父が亡くなったときは特に涙が出ることはなかった。書き忘れたことも言い忘れたこともないように思えたからだ。

しかし葬儀の場では、どこか忘れ物をしたような気分が続いていた。

おそらくそれは心残りであろう。

私は最後まで祖父に自分の字を見てもらいたかったのに、書いた手紙は一通も送らなかったのだから。

 

私の字を美しいと称えてくれたのは祖父ただ一人であった。


私が書いた最初で最後の候文の宛先が、祖父ではなく大学の教授になってしまったことは、後悔しても遅いことは分かっている。

ただ少しでも許されるなら、今から貯めた手紙を送っても良いだろうかとたまに期待を寄せてしまうのである。

縁を切られる人間が縁を切った話

お久しぶりです。

タイトルの通りです。別段面白い話があるわけではありません。ただ少しでも、私のような人が減りますように。

 

生きて二十数年、縁を切られる側の人間でした。いつからだったかは覚えていませんが、小学校から換算するとおよそ切られる側にまわっていたと思います。

私の性格も災いしており、大体は喧嘩や逆恨みが多く、人間関係はあんまり褒められたものではありませんでした。自分が住んでいた地域のせいもあるとは思いますが、抜け出そうとしなかった私の業だと思います。

抜け出せるチャンスはいくらでもあったのに「面倒だから」とそれを潰してきました。そのツケが回りに回って大学の3年間をおよそ無駄にしたのです。

有り体に言えばDV彼氏(たぶんそう)と別れられず3年ズルズル引きずった情けない人間です。昨年末にやっと絶縁に至りました。その過程と後をぬるりと書いていこうと思います。

 

何を言われたか何をされてきたか、ここに書けることは全て過去ツイに流しました。昨年の3月24日の深夜0時過ぎ、新宿駅東口前の交差点で眼鏡を割られたことが全て、私にとっての一線でした。ここを破られてから私の決意は早かったと思います。それでも揺らいでいた自分がいます。「今度こそ変わってくれたのかも」と光を見出そうとした自分が信じられないのですが、恋は盲目とはよく言ったものです。

かの3年で何度も詰られ殴られては土下座を強要され、私の10年の軌跡だった画材や服まで捨てさせられたのですが、その都度「これも彼だから」と彼を愛してきました。それほどまで私にとって彼と縁を切ることは難しかったのです。私が他人からこれを聞いていたら「いやそんな恋人やめちゃいなよ」って言うのですが、当事者からしたら「そんな一面ばかりじゃない  ちゃんと優しいときもある」と反論したくなるのです。あんまり一言でサクッと言いたくはないのですが、まあバカだなとは思います。今だからこそそう言えるわけですが。

遠距離になってから会う頻度は下がり、そのうちに様子を伺っていたのですが、依然変わることはなく、とうとう私は諦めを覚えました。

せっかく仲良くなってくれた人を切るのは、例え自分がどんな目に遭おうとそれだけは避けたいと思っていました。よく考えなくてもこれただの依存体質だなと思います。厄介な性格だなと呆れるのですが、こういう流れにならないと学習できない残念な人間なのです。

こちらに来てからたくさんの友人に背中を押され、私と会うこと話すことに価値を感じてくださる方がいることに涙が出そうになりました。その人たちと一緒にいることで自分が浄化されていくのを感じたのです。そんなこともあり、年始に彼から、「もう別れるのは分かったからせめて今までのお返しをさせてほしい」という旨の電話がかかってきたことをきっかけに、絶縁に踏み出しました。このときの返事が全てだったと思います。それまでの私なら期待してまた「変わってくれたんだ  謝ろう もう一度やり直したい」と言っていました。募り募った負の感情はフィルターにかけられ、「いや、もういいよ  いらない」と返せるまでになっていたのです。逡巡した結果出た答えです。前置きがとても長くなりましたが、このとき初めて自分から縁を切りました。とてもとても怖かったです。側から見たら信じられないと思います。断りながら手が震えていたし考えられないくらい涙が溢れてきて電話越しにバレないようにするので必死でした。やっと終わる。私は私のために幸せになれる、そうありたい。もう毎月詰られることもない、お前のせいでお前が悪いと怒鳴られることも、たった一度のミスで土下座させられることもない。自分の中で終わらせることができる。そう感じました。二度と味わうことのできないと思っていた解放感たるや。気付いていたのに自分を追い詰めることしか道がないと思っていたのです。

わりと苦労はしたほうだと思います。いかんせん人の縁を切れない人間というのは馬鹿を見るだけなのだなと感じました。誘いを断ってから東京まで来たらどうしようとは思いませんでした。不幸中の幸いとでも言いましょうか、彼は専ら私に来させて満足する(語弊あり)人間だったので、そこだけはありがたく感じています。

この3年があってから、自分と相性の良い人を見つけるスキル(?)が上がったように思います。普通の人ならこんな目に遭う前に距離を置いたりできたのかなと虚しく思うこともしばしばあれど、そこは結局人次第だと考えています。私は世渡り下手なのもあり、かなりの時間とお金とキャパを無駄遣いしてしまいました。勉強代には少し高すぎましたが、物覚えの悪い私には刺激的な経験だったと思います。

 

うまく書けなくてすみません、3年の中身はかなり端折りましたが、後々書き連ねてここも再編しようとは思います。

 

どうかこれを読んだ方にはここに書かれたような未来が来ませんように。

金曜日

毎度前途多難がデフォと化してきました私です。前回はベッドの角材に破損があってそこで終わりでした。今回は後編です。当然ですが夜更けの最中に開けた私も私ですが、損壊品を見てすっかり意気消沈してしまい、起きても組み立てる気力がなくなったので朝一番にメーカーへメールで写真を添付して問い合わせたのち、電話をかけました。梱包もすでに終わらせているので返品したい旨を伝えると、マットレスの料金はいただくけど木材は返してもらっていいよフレーム代は返すよ着払いでいいよマットレスはあげるよ、というまさかの展開だったので拍子抜けしました。半額は返ってくるので良しとします。その後配送業者さんに集荷の依頼をかけて、夕方頃に引き取っていただく運びとなりました。配送業者さんも大変驚いており、これうちで預かる荷物じゃないでしょォッホッホ〜エエ-ヤバイねめっちゃ重いよこれ玄関から部屋まで運んだの?大変だったでしょ〜ウワァ〜持ってくね〜!と終始困惑気味に話しておられました。そりゃそうですよね。150cmの角材を運ばせるんならふつうは専門の業者さんを呼ぶよ〜これメーカーさんがウチで持ってくるようにって言ったの?と尋ねられたので素直にハイとしか返事できませんでした。そのとき初めて角材運搬の業者さんが存在することを知ったのですが、メーカー側はどうしてこんな重量のある木材を普通の宅急便で送らせようと思ったのでしょうか。もうここのお店では申し込まないと思うので知ったところでどうでもいいのですが、そういった専門業者さんの存在を知ると腑に落ちない案件ではありますね。とはいえレビューを見ているとそんな情報はなく、たまたま私に届いたものが運悪く損壊していただけと納得するしかなさそうです。まあレビューなんてそれこそサクラだらけなのかもしれませんが、そんなこと言ってたら何も信じられなくなるのであまり考えないようにしています。大阪本町の会社で恐らく卸も対応していただろうと思われる企業さんだったので信頼していただけに少し衝撃を受けました。ただ基本的にクレームを入れないタイプなので、いくらメーカー(あるいは配送業者)が悪いとは言っても初めてのクレームだったので少しだけ申し訳ない気持ちになりました。ほんとに少しだけですけどね。マットレスは未開封だったので、木材を引き取ってもらってから梱包された状態で何かできないかなあと思っていたのですが、思った以上に大きいので簡易ソファや背筋伸ばしにちょうどいいのです。マットレスとはなんだったのでしょうか。一悶着あったわりには良い結末だったと思います。開けてもたぶんソファになるんだと思いますが、今開けてしまうと部屋のスペースがなくなって収拾がつかなくなる気がしているのでまだ梱包されたまま放置しています。またがるとバナナボートくらいです。ちょっとまだ有効活用できていないので、机が届いたらまた考えようと思います。

そうこうしているうちに角材の引き取りと入れ替わりに水曜日に注文していた炊飯器とオーブントースターが届きました。いよいよ自炊できる環境が整ってまいりました、燃えて燃えていきますよ。うちは木造なので燃えて灰になります。さて次回は初めての照り焼きチキンです。どうぞお楽しみに。

木曜日

お待たせしましたこんにちはこんばんは。1人暮らしもそろそろ折り返し地点でございます。そのはずでしたがアクシデントが起きたため、一旦更新をストップしておりました。何があったのかそれでは順を追って記していきましょう。

前日、久々に懐かしい友人から家に来たいとの依頼を受けたので相変わらず布団(のようなもの)とダンボール机しかないけれどそれでもいいなら……と部屋に招き入れたわけですが、あんまりにも何もないのと食材も買い込んでいなかったため、外食する運びと相成りました。過ごし方としては前日と変わりなく、再度新宿へ向かい、ドライバーセットとしばらくカーペット代わりになる敷きマットを一緒に選んでもらってまっすぐ帰ってきました。それ以外のものは何も買っていませんよ、買ってないですよ。友人のメガネを選ぶのに付き合っていたわけですが、周りのブティックにある服というのは関西では見かけなかったデザインのお洋服がたくさん並んでいてそれはそれは大層そそられるものばかりでした。友人が眼鏡選びに時間がかかりそうとのことだったので、すぐ戻ってくることを前提に何件かお店を周っていると、ちょうど春らしい生地と色、柄のジャンパースカートを見つけました。いわゆるノースリーブワンピースというものです。スクエアデコルテのノースリーブワンピースは持っていなかったので、試着を勧められる前にレジへ持っていきました。あれおかしいですね、何も買っていないとはなんだったのでしょうか。優しいサックスにカトレア柄が映えるノースリーブワンピースなんてなかなか見かけないのとあっても生地が春夏向けというにはお粗末なものが多かったので、全て魅力的だったので即決しました。こういうのは見つけたときに買わなければ意味がないのです。模型もレンズもグッズもなんでもそうなのです。買ってから迷えばいいのです。日々を生きていて過ごしていて私という人間は絶対にカードを切ってはいけない人種だなと感じます。それはそれとして、程なくして戻るとどうやら友人の眼鏡はフレームの在庫不足のため2週間後の入手とのことでした。聞くと今のフレームは15年以上使っているらしく、メガネってそんなに保ったっけ?と思いつつ長持ちするメガネもあるんだなと感心していました。私のメガネの扱いが雑すぎるだけなのかもしれませんね、気をつけようと思います。

程なくしてお互いの諸用を済ませて帰宅し、友人が家を出たあとしばらくしてからインターホンが鳴りました。そうです。ベッドが届いたのです。佐川のおじさんが一人で持ってきてくださいました。ほんとうに申し訳ない限りです。購入者組み立て品だったので角材ばかりで、信じられないくらい重かったのです。受取人欄にサインした後、届けられた3つの大きなダンボールを一晩起きる覚悟で開けました。事件はここで起こったのです。角材の一つが損壊しており、とてもじゃないですが組み立てられる状況にはありませんでした。一度こうなれば他の部材も確認しなければいけません。全て出し終えるのにおよそ45分かかりました。もう寝たいです。さっそくゴミ屋敷と化しました。仕方ないのでしまうしかないのですが、果たしてどうしたものかと思っていたら、やはりこういうときはお問い合わせフォームとお電話ですね。もう夜も更けきっていたので翌日にまわしました。前半戦はここまでです。次回の記事は後半戦です。おたのしみに。